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 11.01.22 中東の嫌われ者

旧市街 ダマスカス門

これから夜までは旧市街の中へ行ってみる事にした。
念の為セーフティーボックスにカード類と4分の3くらいの現金を入れて、財布には少量の現金だけ入れていく事にした。
ダマスカス門への行き方はもう分かっている為、ホテルから10分も歩かないうちに到着した。

ダマスカス門 ダマスカス門

色んなウェブサイトや旅行者のブログにも記載されてるダマスカス門だったが、なんと大規模補修中で足場が組まれていたり塵除けがかかったりしているではないか。
なんと運が悪い。 間が悪い。
ではここで恒例のWikiコピペを。

紀元前11世紀にダビデ王がエルサレムを征服する以前には、この街はエブス人の本拠地だった。聖書は、この街が堅固な壁に守られた重厚な城塞都市であったと描写している。ダビデ王が支配したことで「ダビデの街」(Ir David)として知られた当時の街は、現在の糞門外側の旧市街の壁の南東にあったと考えられている。

ダビデの息子のソロモン王は都市の壁を拡大した。その後、ペルシャ帝国領時代の紀元前440年ごろ、ネヘミヤがバビロンから戻り、市壁を再建した。西暦41年から44年にかけては、ユダヤの王アグリッパが「第三の壁」として知られる壁を建造した。

1219年に、市壁はダマスクスのスルタンのMu'azzimによって完全に破壊された。1229年にはエジプトとの条約によって、エルサレムは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の手に渡った。1239年には市壁の再建が始まったが、壁はケラクの首長Da'udによって再び破壊された。

1243年にエルサレムは再びキリスト教国の勢力下に入り、市壁も修復された。しかし、翌年にはホラズムが都市を陥落し、市壁をまたも破壊した。これによって、彼らは都市を無防備に置くという大打撃を与える形になった。

現存する旧市街の市壁は、スレイマン1世によって1538年に建造されたものである。長さは約4.5 km、高さは5 - 15 m、厚さ3mになる。 全体では、旧市街の市壁は43の見張り塔、11の門(うち7つは現在開放されている)を含んでいる。

まぁこんな感じで、ユネスコの世界遺産にも登録されている。
そしてダマスカス門をくぐり中へ突入。
念の為、別に入場料を取られたりはしない。 その代わりに、旧市街の中では様々な商人がウザイくらいに声を掛けてきてボッたくってくる。

狭い通りに様々な商店がひしめき合い、多くの人が行き交っている。
まずダマスカス門から入って目に付いたのは両側には雑貨店や衣料品店が立ち並び、道の真ん中では野菜が売られている。

旧市街 旧市街

奥に進むと道はまるで迷路のように入り組んで、軽食店や鍛冶屋など様々な店が立ち並んでいる。
すれ違う人にはここの住人もいるだろうが、多くは観光客だった。
興味を惹かれて店先で立ち止まったら最後、店主は買うまでしつこくまとわり着いてくるだろうから、決して立ち止まらずに歩き続けた。

それにしてもこういう雰囲気は大好き。
迷路のように入り組んでいてアップダウンの激しい通路。
店先に陳列されている汚い衣料品や雑貨、不衛生な飲料やパン。
それでいて、少し視界が開けると遠くの方には教会らしき建物の屋根が見えたり。
どれもこれも日本では絶対にお目にかかれない光景ばかりで、歩けば歩くほどテンションが上がってきた。

旧市街 旧市街
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